まとめ

将来の夢=職業はなぜ? 子どもの夢から見える社会構造

将来の夢=職業はなぜ? 子どもの夢から見える社会構造
先日、子どもの「なりたい職業ランキング」というアンケートを目にした。
上位には漫画家、イラストレーター、医者、教師などが並ぶ。

しかし、ここで一つ疑問が生じる。
そもそも「将来の夢」とは職業のことなのだろうか。

別のアンケート調査も確認したところ、将来の夢は職業へと転化されていた。
職業というのは社会的な役割である。
社会的な役割には常に代替えが存在する。
夢が役割と見做される構造が、現代において通念とされるのであれば、その構造を覗きたくなってしまう。
以上のことから、今回の記事は「なぜ「将来の夢」は職業になるのか?」というテーマで書いていこうと思う。

「夢」の定義

夢とは本来、願望や想像のことを指す。
現実がもつ確かさが無いことや、現実のあり方とは別に心に描くものといったニュアンスだ。
つまり、突拍子もないことですら、夢では批判されることもない。

例えば
・不老不死になりたい
・亡くなった人ともう一度会いたい
・動物と会話してみたい

こうした願望も夢と呼ぶことができる。
つまり夢とは、本来現実性を前提としない願望でもある。

先に挙げた例の共通点として、社会的役割に依存しないところを見てほしい。
これは役割ではなく、祈りだ。

・今年も良い年でありますように
・病気や怪我なく生きられますように

日本国内で言えば、初詣や参拝に伴う願いに近いだろう。
興味深いのは、人が切に願うものは、最終的にこうした祈りに近づいていくことだ。

多くの大人は、成人後に「夢」を「キャリア」という言葉に置き換える。
社会的な役割に埋没し、その中でどうあるかを考える。
その一方で、定年退職を期に役割を終えた人、役割が一時的に見えない状況で人は祈るのである。

なぜ夢は職業になるのか

多くの場合、「将来の夢」と聞かれると人は「将来の職業」を答える。

これは偶然ではない。
現代社会では誰しもが当たり前の前提としている。

生きる → 働く → 収入を得る
という構造が前提となっている。

「食べるためには働くしかない」
これは自然法則ではなく、近代社会の経済構造によって成立している。

子どもの夢という言葉は、自由な願望のようにも聞こえる。
しかし多くの場合、それは「将来どのような役割として働くか」という問いでもある。
生きるためには働くしかない。
その前提が、いつの間にか夢の中に入り込んでいる。
そのため夢という言葉も自然と「どの役割として働くか」という意味に変わっていくのではないだろうか?

社会が夢の形を作る

人が憧れる職業の多くは、社会の中で観測できるものだ。

・イラストレーター
・配信者
・学校の先生
・スポーツ選手

ゲームやアニメを娯楽とする子供は、イラストに触れる機会も増える。
Youtubeを見る子供は、配信者を見る機会が増える。
学校の先生は日常的に目にするし、スポーツ選手はCMやメディアで登場する。
つまり子どもの夢は、完全に自由なものというより、社会の中で可視化されている役割の集合とも言える。

社会インフラに必要不可欠な職業が羅列されないのはなぜだろう。
これらの多くは、子供の生活範囲において、その業務内容が十分に可視化されるものではないし、
特定の物語の主人公として語られることも、ほとんどない。
認知できない職業は、なりたい職業とはなり得ないのである。

また、親や教師といった存在が、その役割にバイアスを与える。
そのバイアスは、年収や社会的評価、親が想定する子どもの可能性など様々だ。
子が実現可能な社会的役割に従事できるだろうかといったものもあるだろう。

一方で、子の存在が親のアイデンティティと結びついた場合には、子の職業や外的ラベルそのものが、親の人格に結びつく。
故に、子が社会的な成功者であると見做せることを望む親もいるだろう。

これらは、子には関係はない。
親側の教育が間違っていなかったという承認があるのだ。

権力者ですら職業を夢見ない

例えば中国を統一した始皇帝は不老不死を求めたことで知られている。
世界の頂点に立った人物でさえ、夢は職業ではなかった。
人間の願望は、本来もっと根源的なものでもある。

生と死という構造の中にある人間は、年齢が重なるごとに死を想起する。
健康でありたい、不老不死でありたいといった生への執着。
そして、死という不確実性の先にある「救済」への祈り、これは歴史的に「宗教」と呼ばれるものだ。
産業革命以降、人は科学によって多くの問題を解決してきた。
それでも、人間の最も根源的な願いは、祖先が信じた物語の中に残っているのかもしれない。

まとめ

「将来の夢」という言葉は一見すると自由な願望のように聞こえる。
しかし現代社会では、その多くが将来どのような職業に就くかという意味に変わっている。
それ自体が悪いわけではない。
むしろ、現代社会で生き抜くためには、社会の中で担う役割としての生を選ぶのも必要だ。
それは合理的な生き方だ。

一方で、夢が職業になるという前提が生じているのは、個人の問題というより社会の構造によるものなのかもしれない。
食べるためには働くしかないという価値観の前提は、時に根源的な願望も封じ込めてしまう可能性もある。
自身が晩年になったとき、やがて役割は消えてしまう。
その時、人はどう生きるかを問い、祈るのかもしれない。