まとめ

英語を1200時間学んで気づいた言語の意味の難しさ

英語を1200時間学んで気づいた言語の意味の難しさ
英語を学んだことがある人は多いと思う。
私もその一人だ。

これまで英語学習に費やした時間は、およそ1200時間ほどになる。期間としては約1年。
一般的に効果があると言われる方法は、一通り試したつもりだ。

学習方法

例えば、次のような学習を続けていた。

・中学〜高校レベルの英文法をテキストで復習
・海外ドラマを使った毎日30分のシャドーイング
・ディズニー作品の英語版の歌を丸暗記して歌う
・英単語帳(約400ページ)を4回模写

こうして見ると、決して軽い勉強量ではないと思う。
しかし結論から言えば、私は「英語ができる」とは言えない状態のままだ。

もちろん変化はあった。
英語の会話を聞けば、ニュアンスはある程度理解できる。
簡単な会話なら、それらしく話すこともできる。

それでも、英語を日本語に訳したり、日本語を英語に訳したりすることがうまくできない。
なぜだろうか。
振り返ってみると、一番つまずいたのは「意味の扱い方」だった。

学習教材との乖離

例文として「I can swim.」
日本の英語教材では、これを「私は泳げる」と訳す。

しかし私の中では、どうしても次のように理解してしまう。
「私は泳ぐという動作が実行可能である。」

つまり「できる」というよりも、「実行可能性」というニュアンスとして理解してしまうのだ。
このような違和感は、冠詞でも同じだった。

apple
an apple
the apple
apples

これらは単なる文法の違いとして説明されることが多い。
しかし私は、これを「存在の扱い方」の違いとして考え始めてしまった。

私は「apple」という単語を見て、リンゴのことだとは理解していた。
しかし次の疑問が浮かんだ。
「an apple」は、appleという概念を本当に持っているのだろうか。
つまり、リンゴの個体は「リンゴという普遍」を持っているのか。
気づけば私は、英語の勉強ではなく、中世哲学の普遍論争のような問題を考えていた。

apple は概念であり、
an apple はその概念の個体なのではないか。

プログラムで言えば
apple → class Apple
an apple → new Apple()

上記のような関係だ。
気づけば私は、英語の勉強ではなく、言語の構造を考えていた。

冠詞で言えば、the は、文脈の中で特定された対象を指すと言われる。
私はこれを、哲学の言葉を借りて「ある現象をスナップショットとして認識すること」に近いのではないかと考えた。

例えば The Sun という表現。
これは単なる太陽という概念ではなく、
「今ここで認識されている特定の太陽」を指している。

私はこの「the」を、単なる文法ではなく「認識された対象を切り取る行為」として考えるようになった。
つまり話し手は、何らかの対象を認知し、それを言語として共有している。
しかしここで疑問が生まれる。
相手の言う「それ」と、私の言う「それ」は、本当に同じものなのだろうか。
こう考え始めると、英語学習というより、言語そのものの問題に近づいてしまう。

仮定法も苦手だった。
「もし宝くじを買っていたら、私は金持ちになっていただろう。」

しかし私は思ってしまう。
その世界は観測できない。
もし別の世界が存在するなら、その結果をどうやって知るのだろうか。
気づけば私は英語ではなく、可能世界のような問題を考えていた。

日常会話との乖離

海外ドラマを見ていると、こうした感覚はさらに強くなる。
私はAmazon Primeのドラマ「Upload」を何度も見ており、日本語字幕はほぼ暗記している。

その状態で英語版を見ると、英語のセリフと字幕、日本語訳の表現が微妙にずれていることに気づく。

例えば、日本の英語教材では I think がよく登場する。
しかし実際の会話では I guess の方が圧倒的に多い。

直訳するとどちらも「思う」だが、ニュアンスは少し違う。
I guess には、推測や曖昧な同意のような柔らかさがある。
つまり英語の会話では、単語の意味そのものよりも、話者のニュアンスや立場が重要になることが多い。

場と対象

日本語は属性を「場」に付与する言語だ。
例えば「暖かい雰囲気」と言えば、その場にいる人たち全体に温かみがあると感じる。
しかし英語では、属性は基本的に対象に付与される。

つまり
日本語:場 → 属性
英語:対象 → 属性

という違いがある。
気づけば私は、英語の文法ではなく、言語の構造そのものを考えていた。

まとめ

1200時間英語を学んだ結果、私は英語が話せるようになったわけではない。
しかし一つ分かったことがある。

それは、言語というものは単なる単語や文法の集合ではなく、
世界の捉え方そのものに関わるものだということだ。

英語を学んでいたはずなのに、
いつの間にか「言葉とは何か」を考えるようになっていた。
ゲルマン口語、ラテン語・・・言語の構造や文化の違い、さらには宗教の影響まで考えるようになっていた。
気づけば私は、英語ではなくプロテスタントを学んでいた。

言葉の意味や文化、宗教、歴史について考えるようになった。
そして気づいた。
自分は英語どころか、日本語も、歴史も、宗教も、ほとんど何も知らなかったのだ。

だが、それが分かっただけでも、十分に価値のある1200時間だったと思う。
これが、1200時間の英語学習で得たものだ。