なぜ人は【自分らしさ】を求めるのか

就職活動、SNS、自己啓発書。
多くの場面で「自分らしく生きること」が肯定的に語られている。
しかし、ここで一つの疑問が生まれる。
そもそも「自分らしさ」とは何だろうか。
自分らしさという言葉
自己紹介を行うとき、人は往々にして自身の職種を用いる。
私はデザイナーである
私はエンジニアである
多くの場合、この言葉だけで相手はある程度の人物像を想像できる。
しかしここで一つ疑問が生まれる。
それは本当に「自分」なのだろうか。
私は太郎である
私は花子である
これもまた外的なラベルにすぎない。
なぜなら、代替可能だからである。
自己紹介を言語化するとき、多くの場合、代替可能なラベルが用いられる。
面接や紹介の場で外的ラベルが使われるのは、その存在が社会一般において認知可能な範囲に収まっている必要があるからだ。
人は理解できない存在に対して不安や恐怖を覚える。
そのため、外的ラベルは自己紹介の中で使われ続けている。
しかし、それは必ずしも「自己そのもの」ではない。
なぜそれが求められるのか
人は物語に関与することを好む。
ここでいう物語とは、童話や小説ではなく、人間関係の中で生まれる解釈のことである。
例えば、赤子が「ま〜ま〜」と発声したとする。
これを母親は「自分を呼んでいる」と認識する。
さらに「この子は賢い」と感じるかもしれない。
しかし、その発声が本当に母親を指しているという確証はない。
単なる発声である可能性もある。
それでも人は、その出来事を自分との関係の中で意味づけし、物語として理解する。
こうしたことは日常的に起こっている。
そして、先ほど述べた外的ラベルも、この説明を省略するための便利な装置として機能する。
例えば「デザイナー」という言葉を辞書で引くと、製品、グラフィック、Web、空間などの分野において、機能性や審美性を持たせた視覚的・構造的な解決策を設計する専門職といった説明が見つかる。
この言葉から、人は「ものを作る人」「芸術的な感性を持つ人」「設計を行う人」といったイメージを自然に想起する。
このように、人は断片的な情報から人物像を作り上げる。
それが、その主体に対する「物語」として理解されるのである。
社会的に見れば、こうした物語は判断を容易にする。
思考コストを下げ、その人がどのような立場にいるのかを素早く理解できるからだ。
そして何より、既存の物語と結びつけて理解できる。
そのため、人は社会的関係の中で語れる「自己」を求めるのである。
名前についても同様である。
国家という仕組みの中では、個人を識別する固有名詞が必要になる。
その命名を親が代替しているに過ぎない。
人が動物に名前をつけるのも、多くの場合は管理のためである。
犬という言葉も、羊や猫と区別するための分類にすぎない。
その言葉自体に本質があるわけではない。
名前とは、識別のために後から与えられた意味なのである。
個性という矛盾
ここで、もう一つの言葉が現れる。
それが「個性」である。
自分らしさを語るとき、多くの場合、この言葉が使われる。
個性を大事にしなさい。
個性を伸ばしなさい。
しかし、ここには一つ奇妙な構造がある。
個性とは、比較によってしか成立しない。
例えば、身長が高い・低いという概念は、第三者との比較があるから成立する。
手先が器用、性格が明るい、といった評価も同様である。
個が単体として成立する個性というものは存在しない。
では、比較が前提となる社会的な個性を「伸ばす」とはどういうことだろうか。
例えば「足が速い」という評価の頂点には、オリンピックの優勝者がいる。
しかしその評価も、観測可能な範囲の比較の中で成立しているにすぎない。
社会的に「足が速い」とされる人も、単に「足が遅くない」という相対的位置にいるとも言える。
足が遅いことは必ずしもデメリットとは限らない。
状況によってはメリットになる可能性もある。
つまり、何が良いか悪いかという判断は、文脈によって変わるのである。
オリジナリティについて
似た言葉に「オリジナリティ」がある。
私たちの業界では、この言葉がしばしば信仰対象のように扱われる。
しかし、このオリジナリティというものも、厳密にはほとんど存在しないと言える。
例えばデザインは、他者の模倣であったり、自然界の模倣であったりする。
どこまでが自己で、どこからが他者なのか、明確に切り分けることはできない。
優れた漫画家の作品でさえ、コマ割りという表現形式を使っている。
つまり、その設計思想はすでに先人によって作られたものの上に成り立っている。
コマ割りを選択している時点で、その構造は制作過程の中に深く組み込まれている。
完全に独立したオリジナルというものは、実際にはほとんど存在しないのである。
傾向としての自己
少し面白い話をしてみたい。
子供の自己紹介というのは、実に興味深い。
母親の作ったカレーが好き
友達と鬼ごっこをするのが好き
といった内容になることが多い。
これは社会的には「適切ではない自己紹介」とされることが多い。
なぜなら、それは職業や肩書きのような外的ラベルではなく、個人の傾向の一部だからである。
それが社会の中でどのような関係性に属するのか、すぐには理解しにくい。
つまり、思考コストが高いのである。
しかし、こうした傾向が百、千、万と積み重なったとき、それは「傾向としての自己」として理解できるのではないだろうか。
自己は常に固定されたものではない。
しかし、傾向として捉えることで、変化の方向をある程度予測することができる。
わかりやすい例として、天気がある。
私たちは天気そのものを直接知ることはできない。
雨や晴れといった一時的な現象として認識しているだけである。
自己も同じかもしれない。
そのものを直接捉えることは難しいが、傾向としての現象として理解することはできる。
まとめ
では、自分らしさとは何だろうか。
自分らしさというものは、最初から存在しているわけではない。
むしろ、人は他者との関係の中で、自分という像を後から語る。
自分らしさとは、発見されるものではなく、
関係の中で語られる物語なのかもしれない。



