まとめ

なぜ人は「No」と言えないのか?

なぜ人は「No」と言えないのか?
職場や人間関係で「断れない」という悩みはよく聞く。
最近では「バウンダリー」という言葉も使われるようになり、自分と他者の境界を引くことの重要性が語られることも増えた。
しかし、そもそも、なぜ人は「No」と言えないのだろうか、それは単なる性格の問題なのだろうか。

Noの定義

「No」という言葉にはいくつかの意味がある。
論理においては命題の否定を意味するが、日常の人間関係において語られる「No」はそれとは異なる。
ここで扱う「No」とは、他者からの要求に対して関与の境界を示す行為を指す。

人は関係のリスクを恐れる

Noを言うと
・嫌われる
・空気が悪くなる
・評価が下がる

このリスクを人は無意識に感じる。
そのため短期的な平穏を優先し断るよりも引き受ける。

一方で、その平穏は主体がそう思う推測に過ぎない。

・他者に嫌われると投影した主体がある。
・空気が悪くなると見做す主体がある。
・第三者の評価に左右されると見做す主体がある。

しかし、その多くは実際に起きた出来事ではない。
主体がそうなると想像しているに過ぎない。

責任の境界が曖昧になる

仕事というものは、往々にして第三者との関係によって成り立つ。
仕事を依頼する → 断られる → 調整する

これは依頼した側の問題でもある。
しかし断れない人は相手の問題まで自分が背負ってしまう。

断れない人は誠実なのである。
そこには「他者の顔」が存在する。
物理的な顔ではない、他者という存在そのものだ。
自分の選択が、他者に何らかの影響を与えるなら、その責任が無限に生じる。
耐えられるわけがない。

仕事において重要なことは、責任が誰に帰属するか。
レストランを例に簡単な例を書く

マネージャー:管理責任
料理人:技術責任
ウエイター:配膳責任
会計係:会計責任
客:選択責任

それぞれに責任の範疇が異なる。
料理人はウエイターの責任を担う必要はない。
なぜなら、その役割における責任が想定されていない。
もし責任が生じるのであれば、その分の対価を支払う必要が生じるのである。

ウエイターの数が不足していたら、料理人が手伝うべきだ。
そういった論理は通用しない。
ここでは、管理責任のマネージャーがその責任を負うべきなのである。

役割と人格が混ざる

大多数の人は、役割と人格を混合する。
なぜか?外的なラベルを自己として扱うのが楽だからだ。

自己 = 役割としてしまった場合、
それが自分であれ相手であれ、構造の否定が人格の否定に結びつく。

依頼を断る → 相手を否定する

これは、役割だけの問題ではない。
技術が人格になれば、技術選定における技術の否定が人格否定となる。
今起きている人工知能における役割の消失、それに恐怖する殆どの原因はここにある。
失業ではなく、存在そのものが揺さぶられる。

しかし実際には役割の調整でしかない。
そこに人格は存在しない。

まとめ

Noとは拒絶ではなく境界の提示である。
自分の責任と相手の責任。
その境界を理解することで人間関係はむしろ安定する。