Reali-Teaとは何か、過程が信頼になる時代

もっとも、それは単純に現実をそのまま提示するという意味ではなく、「どのような形で現実らしさが認識されるか」という問題に近い。
情報が高度に編集可能になった現在、完成された結果だけでは、その背景にある判断や過程を推測することが難しくなっている。
そのため、人は結果そのものよりも、そこに至る経路や痕跡に納得の手がかりを見出そうとする傾向がある。
本稿では、最近見かけた「Reali-Tea」という言葉を手がかりに、結果ではなく過程に注目が集まる理由について整理してみたい。
それは新しい価値観というよりも、認識の基準がどのように変化しているかという観点に関わるものだと考えられる。
Reali-Teaという違和感のある単語
最近、Yahoo!ニュースで「Reali-Tea」という単語を目にした。
この文字列の分割は見慣れないもので、単なるスペルミスなのか、それとも意図的な操作なのか判別できなかった。
そこで記事本文を確認すると、おおよそ次のようなニュアンスで用いられていた。
Teaには「内情」「裏話」「こぼれ話」といった含意がある。
Realityは「現実」を意味する。
ゆえに「Reali-Tea」という語は、加工された演出ではない、現実に接続された物語性への没入を指しているのだろう。
メディアや広告によって作られた虚像ではなく、現実味に即した虚像が望まれている。
もっとも、第三者によって提供される情報には、製作者のバイアスや言語化されない意図が必ず含まれる。
その意味で、それらが虚像であること自体は避けられない。
完成度が差別化にならなくなった
社会における完成度とは、規範化の度合いとも言える。
たとえば、日常的に目にする広告媒体のレイアウトやタイポグラフィなどは、多くの場合、完成度の指標として機能している。
それは理性的に言語化された基準というより、身体的に類似性を感じ取れるかどうかによって判断されるものだろう。
ここで「だろう」と留めるのは、私自身がその規範を業務として生成する側にいるからである。
一方で、こうした規範に基づく基準は、多くの人にとって理想でもある。
実際、画像修正の現場では電柱や電線を消し、人物の皺や黒子を整えるといった処理が繰り返し行われてきた。
それがリアリティと呼べるかについては疑問が残るが、少なくとも私は、モデルルームを設計するように、特定の人物を理想化して描写する仕事に関わってきた。
そのため、大多数の人が感じる理想と現実の乖離については理解しやすい。
話を戻すと、人は現実そのものを求めているというより、身体が参照可能な痕跡を求めているのかもしれない。
この観点から見れば、多くの人における理想と現実の乖離とは、理性と身体の乖離とも言える。
たとえば、日常的にママチャリに乗っている人にとって、ロードバイクを身体の延長として想起することは難しい。
ハンドルの形状、サドルの位置、車輪の大きさなど、身体感覚と接続されにくい要素が多いためである。
主体の延長として予測しようとしても、どこかに違和感が残る。
この違和感こそが、物語への没入を妨げる要因の一つなのだろう。
評価対象が「結果」から「過程」へ拡張
ここでいう評価とは、明確な数値基準というよりも「主体が納得できるかどうか」という性質に近い。
評価は条件や環境、時間的制約といった有限の枠組みの中で行われるが、その多くは主観的な納得に依存している。
結果(完成度)は、規範に基づく判断材料となる。
すなわち、多くの人が共有する基準から逸脱していないかどうかが参照される。
しかし、結果からその過程(因果)を正確に推定することは難しい。
ここに一つの断絶がある。
たとえば「4」という結果は、
1 + 1 + 1 + 1
3 + 1
2 + 2
16 ÷ 4
といった複数の式から導かれる可能性がある。
結果のみが提示された場合、その途中過程を特定することはできない。
人は予測できないものに対して不安を抱く。
さらに、結果そのものも編集可能であることが広く知られるようになった。
本来の因果が 1 + 1 であっても、編集によって 4 として提示することは可能である。
インターネット上での情報流通によって、多くの人が結果の可変性を理解してしまっている。
その結果、提示された結果が主体の身体感覚や生活形式と整合しているかどうかが、無意識のうちに参照されるようになった。
ゆえに、人は結果そのものではなく「過程」に物語を見出そうとする。
途中式が理解できるとき、その解は信用へと変換される。
Reali-Teaの機能、関係性の生成
過程は、たとえ演出されたものであっても、過程として認識されるならば意味を持つ。
社会的に規範化された映像とは異なるフォーカスやカメラワークなどは、多くの人が日常の中で経験している視覚に近い。
その過程の中に、主体の日常と類似する要素が含まれていれば、その演出は日常の延長として投影される。
ここに関係性が生じるため、「生活者の声」や「自然体」といった語が用いられるのだろう。
そしてこれらは、すでに企業のSNS広告においても広く用いられている。
製造工程の可視化や担当者のコメントなどがその例である。
ユーザーが求める「関係性」は、やがて設計された「関係性」として提供されるようになる。
その結果、人は関係性の形式をもとに選択を行うことになる。
主体は規範によって作られる
以上を踏まえると、人は物語を求め、物語は規範によって形づくられると言える。
現在は、規範化された理想的な像の均衡にわずかな変化が生じている段階なのだろう。
このような揺らぎは歴史的にも繰り返されてきた。
理想から現実へ、現実から理想へと重心が移動しながら、参照される形式は更新されていく。
現在の規範では到達しにくい位置にある像は価値を持ちやすい。
なぜなら、規範化されたものはやがて「普通」へと還元されてしまうからである。
その意味で、主体は規範によって形成される。
しかし主体は再構築することもできる。
破壊ではなく、調整として行うことも可能である。
たとえば、日記を書くこと、瞑想すること、対話すること、節度を保つこと、身体を整えること、言葉を吟味すること。
これらは快楽の扱い方や美的感覚の調整と関係している。
こうした営みは、少なくとも消費的な規範とは異なる位相にある。
変化する環境の中でも主体として選択を続けるためには、このような自己形成の技法が必要になるのかもしれない。



