まとめ

なぜ、今レトロブームなのか?

なぜ、今レトロブームなのか?
2026年になり、平成と令和という区切りも少し過去のような感覚になりつつあるが、
昨今では平成・昭和レトロというものが社会的に流行している。
本記事では、「なぜ、今レトロブームなのか?」という問いをより深掘りし、読者に届けたい。
企業のブログ記事のため、長々と深掘りして書くつもりはないし、小難しい専門用語を使うこともない。
だが、問う以上はある程度の文章量になるのは必然であるため、本記事では結論のみを先に置くことはしない。

レトロという時間と関係性の接続

往々にして「未来をつくる」などといった比喩で広告を発信する現代において、なぜ過去を参照するのかを先に考えていきたい。
本質的なことを述べれば、未来は予測であり、触れることができない。
過去は記憶であり、触れることができない。
こういった文脈的な解釈は昔からすでに存在していたし、現代でもそれを意味として解釈するうえで何ら問題はない。
自由が多い未来という予測よりも、有限で観測可能な過去の方が、制限がある分だけ不安も少なくなる。

過去というのは、「すでに結果が出ている」「意味が確定している」「解釈の枠が有限である」という状態であるため、人は自分が間違えない世界に一時的に避難できる。
人は、未来という確定していない状態を考えると不安になる。
仕事はどうなるか、年金はどうなるか、病気や怪我はどうだろうか、といった制限のない予測が立つため、保険や投資といったサービスが現代でも扱われている。
人は未来から逃げているのではなく、不安に耐えられる形に自由を縮退させている。
「不安とは自由の目眩である」と言った言葉があるが、不安が過剰になった時代に、人が自由を再定義するための装置として、レトロブームが成り立つ足場ができたのである。

レトロ製品に需要が集まる意味合い

現代のアプリケーション、ないし製品プロダクトというのは、UI/UXという名目のもと、ある程度の質が担保されている。
ユーザーを迷わせることは「悪」であるかのように制作者は振る舞うだろうし、そういった構築を行うことで利便性や合理化といった仕組みも立ち上がるため、作られる製品は理性的なものになっていく。
理性の檻の中で様々な製品が生み出される中、昭和や平成の製品は非常に面白い立ち位置にある。

例えば、ファミコンのゲームを想像してほしい。
チュートリアルはなく、物語の説明は説明書の冒頭に記載され、解釈はユーザーの判断に委ねられる部分が多く、なにより操作性も荒々しい。
現代の文脈から言えば、完全に不親切なものだと言えるが、それと同時に、ゲーム体験をユーザー自らが持続として体感・学習することになる。
ここで言う持続とは、「理解する前に、身体が覚えてしまう時間」のことだ。
この持続が生じるからこそ、ユーザーは過去のゲームを古いと蔑ろにせず、レトロゲームという文脈で扱うことができ、それは現代においても名作という立ち位置で君臨することになる。
昭和や平成の製品には、そういった理性の檻に収まらず、ユーザーが主体となって関係性を構築するという意味を持つ商品が非常に多いのである。
突飛なアイデアのある家電製品や、ダイヤルを回すという行為が生じる黒電話など、こういった製品には現代における不便さをユーザーに与える特徴が内在している。
しかし、その不便さもユーザーとの関係性を築く一つの形なのかもしれない。

なぜ「レトロ風」では足りないのか

レトロ風という言葉がある。
過去に流行したデザインやスタイルを現代的にアレンジし、懐かしさや温かみ、古き良き時代の雰囲気を取り入れた表現という意味合いだ。
これは、過去にあったものを現代の文脈に反映することに近い。
そのため、人間との関係の中で生じる物語性は、ほとんど存在しない。
人間とは面白いもので、物自体に物語を投影することができる。
手編みのマフラーや形見の指輪などが、それにあたる。
つまり、手編みのマフラーも工場で大量生産したマフラーも、暖を取るという目的に準えば物としての役割は同一であるものの、手編みのマフラーが捨てづらいと感じられる理由は、こうした関係性が生じているからである。

レトロ風ではなく、レトロ製品に宿るのは、この関係性におけるバイアスである。
現代人は、周囲との会話だけでなく、テレビ、映画、ゲーム、本など、様々な媒体から情報を得ている。
ジブリ作品で黒電話が使われていれば、その物語上の役割を人は感じ取ることができ、感情移入も起こる。
親と子どもの対話の中で、親が懐かしむものがあれば、それに興味を示し、感情を物自体に投影することもあるだろう。
レトロとは、意味が時間を越えて残っている構造そのものであり、その構造によって感情が動くという側面も持つ。
なぜか懐かしい、なぜか欲してしまう。
そういった背景には誰かの物語があり、その物語に意味が宿るからこそ、レトロ製品という独特の立ち位置は現代でも求められている。

レトロが生む体験の質

レトロが生む体験の質

先のファミコンの例で説明した通り、レトロ製品は現代の製品に比べて使い勝手が悪い場合が多い。
一方で、それ自体がユーザーと共に関係性を築くという点についても述べたが、所有から関係への接続がUXとなる場合もある。
だが、単にレトロを模倣しただけでは、その関係性が作られず、断絶してしまうことは往々にしてあり得る。
現代人は、現代のUIの形をすでに認知しているため、単に不便な操作性だけでは、使いづらい物として扱われてしまうからだ。
こうした場合、まず関係性が接続されていることが条件となり、そのバイアスが成立して初めて、不便さも飲み込める流れとなる。

レトロ製品と現代製品を統合して考えると、レトロ製品が現代文脈で問題と見なされる部分をどのように扱うかが、体験の質を変えるヒントになり得る。
操作性は悪いが関係性はある、操作性は良いが関係性はない――そうした矛盾を、肯定的側面も否定的側面も含めて整合させることが、レトロ製品の延長としての現代の役割を担うことにつながる。

また、ゲームの例になってしまうが、HDリマスターという概念は非常に巧みな技術のあり方だ。
低画質だがドットの良さを持つレトロゲームと、高画質だがドットを使わないというグラフィック性の矛盾を巧みに昇華させていると言えるし、こうした製品であれば既存のユーザーだけでなく、新規の参入者にも都合が良い。
こうした体験を作ることで、レトロ製品が現代において新たな体験を生むという結果に結びつくと考える。

まとめ

レトロブームは、懐かしさの問題ではない。
正解が無限にある未来と、正解がすでに固定された過去、その間で生じる人間の感情は、後者へと移行する。
未来が不確かな時代に、人が不安を管理できる形で自由と付き合おうとした結果として、レトロブームは生じている。

レトロ製品が今も価値を持つのは、古いからではなく、意味と関係性が時間を越えて残っているからだ。
人は物に物語を感じ、不便さの中でも関係性を築いてきた。
そうした不便さは現代では「間違い」とされる場面も多いが、それだけではUXの可能性を自ら狭めてしまう。
企業が向き合うべきなのは、過去を再現することではない。
人と物の間に、どのような関係性を築けるかという問いそのものである。