まとめ

【友達がいること】は、なぜ良いとされてきたのか

【友達がいること】は、なぜ良いとされてきたのか
以前、当社のブログ記事において【友達不要論】人間付き合いが面倒くさい人に送る生き方メモ
といった記事を公開したところ、いくつかのサジェストで流入があった。
そのサジェストというのは「友達 面倒くさい」だとか「友達 いらない」である。

今回はその流れにおいて、友達という概念について表層を掘りつつ、どう向き合うべきかについて記載していく。
長ったらしい深掘りも、専門用語も扱わない、結論も具体的な明示をしない。

なぜ「友達がいること」は良いとされてきたのか

世間では、往々にして「友達がいることが良い」といった文脈を肯定的に扱う。
義務教育では友達を作りなさいと親や教師に明示されるし、メディアにおいてもそういった表現が肯定的かつ、大多数の意見として述べられるだろう。
それだけではなく、ゲームや漫画に至っては物語の中で「友情」という言葉は善性であるように謳われ、主人公の役回りは大抵の場合において友情を大事にする側である。
道徳観念においても「友達ならば助けるべきだ」といったことが慣習的に使われている。

そういった場の中でも、「友達 面倒臭い」「友達 いらない」といった検索キーワードを入力し、この記事に辿り着く読者も確実に存在する。
友達がいることが真に良いとされるのであれば、こういったキーワードはそもそも入力されないだろうし、この時点で「友達がいることが良い」という前提の危うさが露呈しつつあるのも事実だと感じる。
ここで重要なのは、「良い」とは誰にとって、どのような状況で、何が、という点を具体的に定義できないことにあるだろう。
前提が不明瞭な良さというのは、非常に危うい言い回しであると同時に、それを社会慣習的な正しさとしてそのまま受け取ってよいのかについては、一度立ち止まって考える余地があるように思われる。
本記事では、そうした違和感を出発点として、「友達」という言葉が指しているものを、あらためて眺め直してみたい。

「友達」という言葉は、どこまでを指しているのか

友達という言葉は、我々が義務教育を受ける前であっても、何らかの感覚的了解のもとで扱われてきた。
そして、その意味や定義については、ほとんどの場合において問うこともなく、かといって深掘りする必要性もなく生きることができた。
だが、友達とは何だろうと問えば、いくつかの視点である程度の想定ができる。

家族(血縁・制度)
恋人(排他的関係)
同僚(目的的関係)
隣人(空間的関係)

少なくとも、これらの範疇のいずれかにきれいに収まるものではない。

教科書的な定義で言えば、
「互いに親しく交わり、心を許し合って付き合う相手」
「親しみをもって交際する相手」
といったニュアンスだ。

一方、古代では友人関係について明確な定義が与えられていた時代もある。
例えばアリストテレスは、人が善く生きるために友が不可欠であると述べた。
ただし、彼の議論は、共同体が安定し、価値観が共有されていることを前提としている。
その前提が大きく崩れた現在において、当時の定義をそのまま用いることは難しいだろう。

例えば、「互いに親しく」といった表現についても、他者の心理を覗くことはできないし、かといって自分の心理にもバイアスが生じるため、この場合において「親しいだろう」という推量は非常に曖昧なものとなる。
そこには、条件や期間、責任といった互いに引き受けるべき前提が存在しない。
だからこそ、人は自然に友達という言葉を使うことができ、子供であっても友達という言葉を使うことができるのである。
もし定義が厳密であったなら、多くの人は「友達がいない」という状態に自然と分類されてしまうだろう。

定義されない前提から、結論は導けない

これまで述べてきたように、「友達がいることが良い」という前提は非常に曖昧である。
前提が曖昧であれば、結論もまた導き出せないのは必然だ。
仮にこれを帰納法として「良いことが多い」といったニュアンスで観測するのも無理がある。

なぜなら、この観測方法による検証は各々の主観的な感覚に分類されてしまい、それ自体が根拠となる数値ではなく、社会的な慣習を前提とした観測になってしまうからである。
そこにはバイアスも含まれてしまう。
つまり、「友達がいることが良い」という命題は、構造的に成り立たないということである。

にもかかわらず、それが慣習的に「そうである」と見做されてしまうのはなぜだろうか。
次はこの問いを少しだけ掘り進める。

それでも、人は「友達」という像を求める

友達がいることが良いという慣習があるということは、友達という像が何らかの利点を持っているということでもある。
これについては、二つの視点から見るとより鮮明になるだろう。

一つ目は、社会的な役割における像である。
多人数が関わる社会においては、関係性を簡略化できる概念ほど、扱いやすいものとして定着しやすい。
グループ化することができれば、様々な場面で有効に活用できる。
例えば飲食店では、テーブル一つに対して椅子を複数用意するだけでよくなるし、教育機関では「仲の良いとされる友達」から当事者の近況を伺うこともできる。
そして、大多数に分類できない人を「孤立」という例外として扱えるといった機能も持ってしまう。
つまり、説明を省略でき、比較や評価といった行為が容易になるということである。

二つ目は、自己の認識が明確になるという点である。
近似的な比較として、自己と他者の境界が明確になる存在が友達でもある。
例えば、似たような環境で育ち、年齢も近く、同じ集団に属しているといった近似的対象は、自己がどういった像であるかを測定しやすい。
この場合、他者との比較を通じて、自分の輪郭を安定させる装置として機能する。
どこまでが自分の責任で、どこからが他人の選択か、何が「自分らしい」と言えるのかといった認知を、個だけで行うことは難しい。
仮に、世界のトップアスリートや大富豪と比較することになれば、あまりに極端な例となってしまい、自己の存在が社会的にどの程度の立ち位置なのかは滲んでしまう。
その結果として、人は近似的な比較対象を通じて、自己の立ち位置を一時的に明確化しようとする。

「いなくてもよい」という在り方について

友達は必須ではない。
かといって、ゼロにする必要もなければ、減らす必要もない。
ここで重要なのは、どのように付き合っていくかという在り方である。

問題になっているのは、友達がいるかどうかではなく、関係性に付随する過度な説明や、親密さの要求である場合が多い。
自己が友達を「面倒くさい」「いらない」と認知しているのは、その対象が自身にとってどういった存在であるかを、自己が投影している結果に過ぎない。
つまり、その友達という対象の人格を評価することも、真理を知ることもできない以上、それは自らが作り出した虚像であるとも言える。

こうした構造を認知するだけでも、人間関係における摩耗は多少なりとも軽減されるだろう。
また、友達がいない状態を、何かの不足としてただちに評価する必要もない。
自己と他者の関係性において、普遍的な「良好」などは存在し得ない以上、互いを尊重するとは、そうした勾配の中で関係を続けていく姿勢として現れてくるのかもしれない。