まとめ

なぜ誰が踊っても同じように見えるのか?ショート動画のダンスの構造

なぜ誰が踊っても同じように見えるのか?ショート動画のダンスの構造
私は通常、SNSにおけるショート動画を目にする機会が殆どない。
SNS自体を行っていないことが、その主たる理由だろう。
それでも、目に入ってしまうものについては眺めることがある。

SNSには様々なショート動画が流れている。
動画の種類は、料理、DIY、教養系などジャンルが多角化しているものの、ダンス動画は依然として多い。

ショート動画のダンスを見ていて、こう感じたことはないだろうか。
誰が踊っても、なぜか同じように見えると。

ダンス動画の全てを見たわけでもないし、表示される傾向もあるだろう。
そういった意味で観測が少ないのは明らかであるが、問いが生じるには十分な数であった。

私の問いは一つ、「なぜ誰がやっても同じに見えるのか?」である。
つまり、ダンスの動作自体は変わっている。
音楽も変わっている。
それを踊る主体も変わっている。
だが、それ自体が個々の表現ではなく、規定されたパターンのように感じ取れたのだ。
本記事では、「なぜ誰がやっても同じに見えるのか?」を出発点として、SNSにおけるダンスについて考えていきたい。

結論

ショート動画におけるダンスは、表現であると同時に拡散フォーマットとしての性質も持っている。
SNSにおいて情報拡散というのは、ひとつの価値だ。
情報拡散には、伝播しやすさが影響する。

伝播しやすさと呼べる要素は以下が挙げられる。
・短い
・覚えやすい動き
・真似できる
・音ハメが強い

つまり、大多数にとって再現が容易であることだ。
身体的ミームの特徴として、「誰でもできる」「繰り返せる」「他人と共有できる」が成立しているのである。

一方で、技術・表現としてのダンスはどうかを考えてみる。
プロのダンスであれば、技術と鍛錬が要求される。
精度は高いが、再現性が低い。

伝統的な部族のダンスは、身体と文脈が直結してる。
その表現は、文化の継承や儀式的な様式も含む。
ダンスに付与される文脈・意味が多く、伝播には向かない。

上記と比較するとショート動画のダンスが、「見る」より「伝播」ための設計に近いのが見えてくる。
ここから、より詳細にダンスの特徴を考えてみる。

身体的動作

ショート動画に限らず、身体的なダンスは動作の連続である。
簡略化して述べると、手をあげる、腰をひねる、手をおろす、といったように個々の動作が連続していると言える。
複雑なもので言えば、手をあげながら腰をひねるといった複数の並行運動もある。

ここで注目したいのは、個々の動作が切り分けられる点である。

例えば、手を挙げる動作を考えてみる。
肘の角度や肩の動きは人によって違うが、「手が上にある」という状態は共通している。
手をあげるという動作は、開始位置Aと終了位置Bさえわかれば、人間は再現できる。
AからBに向かう運動は、時間を用い、変化量として刻むこともできるだろうが、0.01秒ごとに腕を僅かにあげていくことを人は意識しない。
意識せずとも、開始位置Aと終了位置Bさえわかれば、身体は補完できてしまう。
この位置が複雑に連続的に生じると、身体技能や反復による記憶が必要になる。
これが伝播には向かないのは理解しやすいだろう。

表現

前節では、開始位置Aと終了位置Bがわかれば、それを一つの動作として扱うことについて述べた。
AからBの中で、動作の角度を調整することは反復する経験によって身体が記憶できる。
これも一つの表現ではある。

一方で、日本舞踊のようにAからBの間に緩急を与えるダンスもある。
日本舞踊では、開始位置Aと終了位置Bの間にA’やA”といった中間があり、変化量を調整する。
これは実際の運動:(A → A’ → A” → … )といった連続を、意識として扱っている。
人は本来、時間を流れとして生きているが、点(A → B)の集合として捉えてしまう。
点の集合は、連続を離散したポーズとして刻み、その間を身体が補完する。

本来、身体が補完した動作の連続には、可能性が生じる。
一方で、点にすると選択肢が固定され、型に収束していくのである。

歌舞伎は、連続した運動の中に、表情の変化をつける。
顔(目・眉・口)の変化、視線の軌道は、単なる動作ではなく、表現となる。

始点:まだ意味が開いている
中間:身体+表情で意味を増幅
終点(見得 / 動きを止め、感情を凝縮する瞬間):意味を一気に確定させる

観客は連続を全部見ていなくても、変化は感じる。
顔と身体の変化が段階的なシグナルとして知覚されるからだ。
ショート動画のダンスの表現は、伝播効率によって型に収束する。
このことによって、「同じに見える」と感じるのかもしれない。

余談

歌舞伎に限らず、演技における表情の表現は、意識的なものだ。
我々がバーベルを持ち上げるときに、歯を食いしばるのは、歯を食いしばるという指示をしたからではない。
意識的に歯を食いしばることが出来ても、それが演技であることは自覚できるだろう。

我々は理性に先立って、身体的・精神的負荷が「歯を食いしばる」という動作に繋がっていると認知している。
これを演技として表現するのは難しい。
筋肉がどう変化するかを知っていても、それを意識的に再現するのが難しいからである。
ただの表情であっても、その表現に至る鍛錬と技術は相当なものだろう。
だからこそ、心に残る演技というのは一長一短には行えないのだ。

まとめ

ショート動画のダンスは、誰でもできるという強さを持つ。
しかし同時に、誰がやっても同じに見えるという限界も持っている。

私たちは普段、動きの始点と終点しか見ていない。
だからこそ、少しの違いは消え、型として認識される。

一方で、日本舞踊や歌舞伎のように、その間に意味を持たせる表現も存在する。
同じ動きであっても、どのように時間を使うかによって、それは全く別の表現になる。