まとめ

体験格差とは何か? 消費・比較・義務化から考える

体験格差とは何か? 消費・比較・義務化から考える
昨今において、体験格差という言葉をよく聞く。
ゴールデンウィーク明けであれば、大型連休であるという事実から、外出すべきという義務に変換する人が多いのだから尚更だろう。
さて、本記事では体験格差に各々述べていくが、体験格差の是非について述べるつもりはない。
ここで述べていくのは、体験格差という言葉を起点にして、なぜ現代社会は体験をそこまで神格化するのか?である。

体験格差とは?

まず、言葉の揺らぎを防ぐために「体験格差」という言葉を固定したい。
本記事での体験格差は下記のように仮定義する。

体験格差とは、家庭環境・経済状況・地域性・親の価値観などによって、
子どもが接触できる経験の種類や幅に差が生じ、その差が認識・能力・社会参加・自己像の形成へ影響する現象。

ここで述べた通り、親と子の関係性と、子の影響についてが主たるものになる。

体験のパターン化

体験と言っても、一様ではないだろう。
レジャー体験や、コンビニでの簡単な買い物など、体験にも差が生じる。
この差について、本記事では下記の四分類に分けて考えていこうと思う。

消費型体験
金銭支出によって得る体験。
テーマパーク、旅行、高級レストラン、現代メディアが最も扱いやすい。
環境型体験
生活環境そのものから自然発生する体験。
田舎の自然、地域行事、動物との接触など、本人は特別と認識しない場合も多い。
内面型体験
外部イベントではなく、認識変化を伴う経験。
喪失、孤独、挫折、出会いなど、人生形成への影響は大きいが、可視化しづらい。
情報型体験
メディアや仮想空間を通じた経験。
ゲーム、ネット、読書、映画、創作など、現代では多いが、軽視されやすい。

体験への入り口の差

ここで挙げた通り、最も多く目にするのは「消費型体験」だろう。
なぜなら、メディアが最も多く取り上げるだろうし、消費型体験をしろとは言わずとも、
情報露出の頻度によって、各々が「すべき」という義務に変換される要因になっていると捉えられる。
環境型体験と情報型体験は、一定のメディア露出こそするものの、消費型体験と比較して少ないし、消費型体験と比較し費用や時間は多くはかからないだろう。
この場合、環境型体験と情報型体験は、体験そのものへのハードルが低く、入り口の差は大きく開かれない。
そして、内面型体験については能動的な体験は難しいと言えるから、ここでは一旦外しておこう。
このことから、体験への入り口に大きな差が生じるのは、消費型体験とそれ以外の分類として良いだろうから、これを主軸に考えていく。

消費型体験との差

消費型体験とそれ以外の差について考えていけば、金銭の消費差がやはり大きいだろう。
金銭の生じる体験とそれ以外の体験で何が違うのかを考えてみると、特定の第三者が金銭を対価に何らかのサービスを提供することにある。
個だけで体験できる限界から、第三者の介入によって開かれる。
それが、非日常という形になって体験として現れるのだろう。
一方で、それ以外の体験は、個が体験できる範囲が限られている。
地域行事の参加や、映画の鑑賞など、日常の延長としての体験になるだろう。
ここで考えるべきは、第三者の存在によって開かれた経験がなぜ価値を持つように見做されるのかである。

まず、考えられるのは意味づけが容易であることである。
個では体験できないものを体験したと意味づけをするためには物語が重要になる。
そこには体験の有無だけではなく、金銭を払った、遠くへ移動した、お土産を買ったなど様々な要因が考えられる。
例えば、お土産などは非常に顕著な構造だ。
自身がどこかに行ったという結果を、お土産という物を通して、別の誰かに提示できるのだから。
お土産を買うという行為は、誰かのためという表層の意味づけだけに留まらず、自己の体験に意味づけを行える装置としての機能を果たす。
同様に、金銭を払ったならば〜である、遠くへ移動したならば〜である、といった価値を体験に意味づける。
このことから、消費型体験は意味づけが容易なのである。

では、体験の質はどうか?
ここでの質を考えるとあまりに膨大であり、感覚的であり、測定することは出来ない。
一方で言えることは、その体験自体が演出されたものであることは否めない側面もあるだろう。
テーマパークであれ、旅行であれ、誰かのサービスによって成り立つ。
旅館やホテル、パーキングエリア、道の駅、そういったものはサービスの一種だから、体験そのものが演出されている。
体験だけではない、観光地自体が演出された場である。

例えば、タイは昆虫食が盛んな文化圏ではあるが、ホテルやレストランで食べるのは観光客向けの無難なものが多い。
ガパオライスやトムヤムクン、パッタイ、カオマンガイなどが有名だろう。
一方で地域によっては、薬剤としてタガメを生で食べることもあるし、ヒルを油で炒めて食べるものもある。
だが、自国の価値観から昆虫食を食べることを避ける場合もあるだろう。
体験する機会があっても、最初から選別されているし、主体としても選別している。
体験する内容が、必ずしも地域性、独自性のあるものではない。

親のアイデンティティ

子が親のアイデンティティになるのは社会一般的によくあることだ。
子が称賛されれば、親も称賛されたと感じるし、子が否定されれば、親も否定されたと感じる。

体験という文脈であれば、子がなんらかの体験をしたという結果が、親自身のアイデンティティに結びつくと考えられる。
つまり、投影した子の虚像に対して、親が何かしらの価値判断を行い、それが自己の肯定や否定に繋がるのである。
わかりやすい例で言えば、子がなんらかの学歴を収めることが、自分の社会的な価値と見做す親であるとか、そういったものである。
親にとって社会的に価値が低いと見做される体験が、子にも価値が低いものであると短絡的に結びつけたり、
子の体験が第三者との比較によって生じる差について、自身の劣等感のように思い込むのも、アイデンティティの結びつきによるものだろう。
だが、本来的に言えば親も子も別の人格であり、個体も異なる。
子にとってかけがえないのない経験が、必ずしも親にとって重要な体験ではないし、その逆も然りだ。

格差というのは比較によって生じる。
この比較とは、親子という関係上、個対個の比較で閉じない。
親同士の比較に留まらず、子の比較が、親の比較としてすり替えられる。
コミュニティの中で何かしらの比較を行った結果において、それが自身のアイデンティティに影響を与えることは珍しくない。
ましてや現代ではインターネットの影響もあるから、比較は表面化しやすい。
SNSやニュースメディアを通して、比較が生じ、その結果として劣っている or 優れているといった評価を意味づける。
体験格差があると見做す側面として、子ではなく、親のアイデンティティの影響も強いのではないだろうか。

今しか出来ないことと、いつでも出来ること

今しか出来ないことをしなさいと日常で言われる場面は多々ある。
一方で、人生はあらゆる場面、状況が不可逆である。
今しか出来ないことというのは、常に生じている。
いつでも出来るこというのは、本来的にあり得ない。

では、なぜ「今しか出来ないこと」だけが、ここまで重要視されるかだ。
ここには様々な要因があるが、一番顕著に見えてくるのが、責任との関係性である。

人は、特定の行為に対して何らかの意味づけを要するものだ。
その意味づけが外的な要因によって何らかの価値と見做されるのであれば、それを理由に責任を分散できる。
自身が何かしらの体験を行って、それがメディアや社会通念による価値と見做される場合において、その行動をとった自己が間違っていなかったと意味づけが行えるのだ。
少し抽象のものになるから、具体例を見てみよう。

もし、あなたが特定の観光地に旅行したとしよう。
観光地に旅行することは、社会通念上において「良い体験」と見做されるならば、旅行内容が極端な事故や事件に巻き込まれない限り、周囲からは良い体験であると見做される。
一方で、自宅で動画を見続けることが、社会通念上において「悪い体験」と見做されるならば、当人にとってかけがえなのない発見があっても、周囲からは「悪い体験」と見做される。
そして、その体験における価値を第三者に伝達する場合において説明が必要になる。
社会通念上の規範に属している良いと見做される体験については、外的にも間違っているとは見做されないし、それによって説明も不要になる。
このことから、自己の行動結果が間違っていなかったと後付けできるのである。
そして、この意味の後付けを先取りすることで、これから生じる体験が間違いでないという安心が生まれる。
選んだ意味を先取りすることで、無限に生じる選択肢を避け、その上で選んだという責任を外的要因に結びつけることで安心するのである。

一方で、いつでも出来るこというのは、日常的に生じるなんらかの行動の延長として捉えられるが、この行為の先に発見があることも忘れてはならない。
この、いつでも出来ることというのは、その行為によってだが報酬系が異なるのだ。
読書や映画鑑賞という行為は短期的な成果は生じない。
だが、傾向として徐々に成果が現れる。
読書や映画鑑賞は、旅行のように即座に「行った」という結果を残さない。
だが、数年後になってから、思考や価値観の一部として沈殿していることがある。
一概に、今しか出来ないことだけが優れているとは言えないだろう。

いつでも出来ることを価値に変換する

現代社会において、私たちの関心は常に断片化されている。
メディアによって「理想化された生活」が規範として、「〜すべきだ」と義務に変換されていく。
一方で、そういった規範とは異なり、生活を閉じることは決して停滞ではない。
外部のノイズを遮断し、ルーティンの中に身を置くことで、次に何をすべきかという迷いから解放される。
限られた空間で生きることは、他人の視線から自由になり、自分自身の内なる情動が活動できる余白でもあるのだ。

少し視点を変えて歴史上の偉人を見てみよう。
彼らは今しか出来ないことではなく、いつでも出来ることを閉じた生活圏内で研ぎ澄ました一例だ。

たとえば、イマヌエル・カントはその典型だろう。
彼は生涯のほとんどを故郷ケーニヒスベルクから出ることなく、毎日決まった時刻に同じ道を散歩し、思索に耽った。
外界の刺激を最小限に抑え、生活を徹底的にルーティン化することで、彼は人間の認識の限界という、時空を超えた普遍的な問いを解き明かそうとしたのである。

さらに、アイザック・ニュートンが万有引力の着想を得たのも、ペストの流行によって大学を追われ、故郷の村に「引きこもらざるを得なかった」時期のことだった。
流行に乗り、華やかな社交に興じる代わりに、彼は静寂の中でリンゴの落下という「いつでも、どこでも起きている現象」に目を向けた。
生活圏を閉じることは、彼に宇宙の真理を凝視する時間を与えたのである。

断片化された極端な例を持ち上げて、合成の誤謬をするつもりではない。
いつでも出来ることであっても、何らかの可能性としての価値に結びつくこともあるということだ。

読書、散歩、ゲーム、映画鑑賞、あるいは何もせず考え続ける時間。
そうした「いつでも出来ること」は、派手な体験として語られることは少ない。
しかし、人の認識や感受性は、時にそうした反復の中で静かに変形していくのである。

まとめ

現代社会では、「良い体験」が常に可視化される。
旅行、テーマパーク、習い事、限定イベント。
それらは「価値ある経験」として意味づけられ、時に人生を豊かにする。

だが一方で、その価値判断は社会通念やメディアによって補強され、「経験すべき」という義務へ変換されていく。
人はそこに安心を見出す。
皆が良いと言っている経験を選ぶことで、自らの選択が間違っていなかったと後付けできるからである。

しかし、本当に人を形成するものは、必ずしも派手な体験ではない。
読書、散歩、ゲーム、思索、あるいは何気ない日常の反復。
そうした「いつでも出来ること」が、長い時間をかけて人の認識や感受性を静かに変形させることもある。

体験格差という言葉は、単純な経済格差だけでは語れない。
そこには、何を価値ある人生と見做すのかという、現代社会そのものの価値判断が表れているのである。