なぜ労働環境が改善されても、人は辞めるのか

しかし、そのルールではカバーできない部分、精神的・身体的な苦痛を、多くの人が感じている。
もっとも、その認知を言語化できない場合がほとんどであり、「なんとなくだるい」や「モチベーションがない」などという言葉に置き換えられる。
企業努力によって、その「言語化できない苦痛」を補おうという動きは近年活発だ。
改善されていく労働環境の中であっても、人は辞めていく。
それは、業務内容と自己理解の不一致であったり、個人の環境変化によるものもあるだろう。
だが、それでも何らかの苦痛が原因で退職に至る者もいる。
なぜ、多くの人が仕事に苦しさを感じるのか?
その苦しさは、単純な労働時間や人間関係といった問題だけでは説明できない何かがある。
むしろ、もっと構造的なところに原因があるように見える。
本記事では、その構造としての苦しさについて整理してみる。
前提
本記事では言葉の揺らぎを防ぐために、いくつかの語についてそのニュアンスを絞る。
文中に出る幾つかの語については、その前後の文脈によって説明をする。
・責任
結果に対して説明を求められる範囲のことを指す
・コントロール
自分の意思で結果を左右できる範囲のことを指す
労働は「すべきもの」なのか
まず、日本社会での社会的な規範として考えてみる。
そこには多くの場合、教育を終えた後には働くものだ、という前提がある。
一方で、働くこと自体が前提となり、そのために教育や準備が位置づけられる場合もある。
どちらにせよ、ここで重要なのは「働くべきだ」という考えが自然に成立している点だ。
多くの人にとって、労働は「すべきもの」として自然に受け入れられている。
しかし、この「すべき」という前提は、必ずしも個人の実感と一致しているわけではない。
ここに、無視できないズレが生じる。
誰しもが必ずしも「労働」をしたいとは考えていない。
社会維持のために、その「労働」が生活の中に組み込まれ多くの時間を占めることになる。
この中で「すべき」という義務を為したときに生じるのが「責任」である。
次はこの責任について考えていきたい。
責任とコントロールのズレ
他国では、業務における責任が絞られるケースがある。
例えば、スーパーマーケットという組織で言えば、
レジ係なら「レジ打ち業務」
カート係なら「カートを戻す業務」
役割にも名詞がついていて、「Cashier, Bagger, Cart Pusher」などである。
それぞれの役割が明確なのであれば、それぞれの責任も明確である。
つまり、コントロールと責任が明瞭である。
一方で日本はどうかと言えば、そうではない場合が多い。
レジ係かつ、カート係かつ、品出し係かつ…といった複数の業務が一つの名称に割り当てられることもある。
これは実際に著者が体験した話ではあるが、
著者はコンビニ店員のアルバイトをしたことがある。
レジ打ちだけでなく、発注や、ポップ作成なども依頼されたこともある。
給与はそのままに責任だけ増えていく。
例えば、誤発注をすればコンビニ全体のリスクになるだろうし、ポップにしても誤表記があればリスクが生じる。
では、無責任に行うかと問えば、違うだろう。
行う業務が増えるほど、コントロールできる範囲は曖昧になる。
コントロールが曖昧になれば、その結果もまた予測が難しい。
だから不安も生じる。
結果の予測が出来ず、ただ責任だけが増えていく。
これは苦痛だ。
本来、責任には対価が必要である。
でなければ、業務における役割が曖昧になり、その結果として責任も分散する。
責任の所在が曖昧な業務は、結果として無責任になりやすい。
現実の中でどう向き合うか
だが、特定の国と比較し、故に見習うべきだとするのは違う。
文化、環境、宗教、民族、多種多様な要素があるから、慎重に論じるべきだ。
日本企業はその曖昧さによって運用できている部分も多いだろうし、
役割を遵守した業務方針にすれば、人の流動にも関わり、雇用というコストも増える。
その結果において、雇用組織自体が崩れてしまえば、元も子もない。
ここで重要なのは、現代の日本という環境において、どのような工夫を用いれば、コントロールと責任による苦痛を軽減できるかにあるだろう。
まとめ
ここまで見てきた通り、労働における苦しさの一因は、責任とコントロールの不一致にある。
コントロールできない範囲に対して責任が課されるとき、人は結果を予測できず、不安を感じる。
一方で、コントロール可能な範囲に責任が限定されていれば、結果に対する納得感は生まれやすい。
重要なのは、責任を減らすことではない。
責任とコントロールの関係を見直すことである。
どこまでを引き受け、どこからを切り離すのか。
この設計次第で、労働の苦しさは大きく変わる。



