デザインは自由ではなく規範から始まる

デザインは自由ではなく規範から始まる
デザインという言葉を聞いたとき、多くの人は自由な表現を思い浮かべるだろう。
色や形を工夫し、自分らしさを表現すること、あるいは他にはない見た目を作り出すこと。
そのようなイメージを持つ人も少なくない。

だが、Webサイトのデザインについて考えた場合、少し事情が異なる。
例えば、多くのWebサイトではロゴが画面の左上付近に配置されている。
メニューは画面上部や右上付近に配置されることが多い。
これは法律で定められているわけではない。
それにもかかわらず、多くのサイトが似たような構成を採用している。

ここで一つの問題が生じる。
なぜ、多くのサイトは同じような配置になるのだろうか。
理由の一つは、利用者がその配置に慣れているからである。
長年インターネットを利用してきた人は、ロゴがどこにあり、メニューがどこにあるかを無意識のうちに予測している。
そのため、規範に沿った配置は説明を必要としない。
見た瞬間に理解できる、どこを押せばよいのかを考える必要もない。
一方で、規範から大きく外れた配置は違和感を生む。
例えばロゴが画面中央に配置されていた場合、それだけで利用者は一度立ち止まることになる。
もちろん、その違和感が悪いとは限らない。
実際に印象的なデザインの中には、あえて規範から外れることで成立しているものもある。
しかし、その場合でも利用者は一度そのルールを理解しなければならない。
つまり、自由な表現は規範とは無関係に存在するのではない。
むしろ規範があるからこそ、その逸脱が認識されるのである。
その意味では、デザインは自由から始まるのではない。
まず規範があり、その上で自由が成立しているのかもしれない。

個性は認知できない

企業サイトの制作において、「個性を出したい」という相談を受けることがある。
多くの場合、この個性という言葉は良い意味で使われている。
他社と違うこと、独自性があること、その企業らしさが伝わること、おおよそそのような意味合いだろう。

だが、ここで一つの問題が生じる。
そもそも個性とは何だろうか。
例えば、ある人物が毎回同じような言葉遣いをしていたとする。
別の人物は特定の色を好み、同じような表現を繰り返していたとする。
私たちはそうした傾向を見て、「その人らしい」と判断することがある。
しかし、本人は必ずしも個性を作ろうとしているわけではない。
むしろ本人にとっては自然な選択を繰り返しているだけである。
文章についても同様だ。
長年同じ著者の文章を読んでいると、その人らしい言い回しや考え方が見えてくる。
だが、その特徴が一つの文章だけで成立しているわけではない。
単体では偶然に見える選択であっても、繰り返されることで傾向として認識される。

つまり、私たちは個性そのものを認識しているわけではない。
何らかの傾向を見て、その結果を個性と呼んでいるのである。
企業についても同じことが言える。
企業理念、サービス、広告、デザイン、文章表現。
それらが長い時間をかけて積み重なることで、「この会社らしい」という印象が形成される。
だが、その印象は単一の要素によって説明できるものではない。
ロゴだけで成立するわけでもない、色だけで成立するわけでもない。
キャッチコピーだけで成立するわけでもない。
それらの傾向を総合した結果として、後から認識されるのである。
その意味では、個性は意図的に作るものというより、後から見出されるものに近い。
私たちが個性と呼んでいるものは、実際には繰り返された選択や判断の積み重ねなのかもしれない。

企業の個性とは何か

企業の個性という言葉を聞いたとき、多くの人は何らかの企業像を思い浮かべるだろう。
例えば、誠実な企業、革新的な企業、親しみやすい企業などである。
実際、私たちは企業について語る際、「この会社らしい」という表現を自然に用いている。
しかし、ここで一つの問題が生じる。

そもそも企業に個性は存在するのだろうか。
企業には顔もなければ声もない、人格を持つわけでもない。
それにもかかわらず、私たちは企業に対して人格的な印象を与えることがある。
「会社が言った」「企業が考えている」といった表現もその一例だろう。
だが実際には、発言しているのは担当者であり、判断しているのは経営者や従業員である。

企業そのものが何かを語ることはない。
それでも私たちが企業に人格らしさを感じるのは、様々な情報をひとまとめにして認識しているからである。
例えば企業サイトを考えてみよう。
青を基調としたデザインであれば誠実な印象を受けることがある。
一方で黒を基調としたデザインであれば高級感や重厚感を感じるかもしれない。
しかし、青いサイトだから誠実な企業であるとは限らない。
黒いサイトだから高級なサービスを提供しているとも限らない。
色そのものが企業の本質を表しているわけではないのである。
広告についても同様だ。

「技術で未来をつくる」
「人と社会をつなぐ」

こうした言葉は企業の印象形成に影響を与える。
しかし、それらの言葉だけで企業を説明できるわけではない。
実際には商品やサービス、問い合わせ対応、アフターサポートなど、様々な経験の積み重ねによって企業イメージは形成される。
私たちはそれらの情報を総合し、「この会社らしい」という印象を持つのである。
ここで重要なのは、企業の個性が単一の要素によって成立しているわけではないという点だ。
ロゴだけで決まるわけではない、色だけで決まるわけでもない、キャッチコピーだけで決まるわけでもない。
むしろ、それらの要素が長い時間をかけて積み重なり、一つの傾向として認識された結果、「企業らしさ」が生じる。
その意味では、企業の個性とは企業の内部に存在するものではなく、企業と関わる人々によって形成される認識に近いのかもしれない。
だからこそ、企業の個性を単一の特徴へ還元することはできないのである。

デザインにおける規範と評価

デザインについて語るとき、「個性的であること」が良いことのように扱われることがある。
他にはない見た目、独自の表現、強い印象を残すデザイン。
そのようなものを高く評価する人も少なくない。

しかし、ここで一つの問題が生じる。
個性的であることと、評価されることは同じなのだろうか。
例えば、何の制約もなく自由にWebサイトを作った場合を考えてみよう。
多くの場合、子どもが作るサイトの方が個性的になる。
好きな色を使い、好きな場所に要素を配置し、思いつくままに表現するからである。
一方で、実務として制作されるWebサイトには様々な制約が存在する。

・利用者が迷わないこと
・情報が伝わること
・運用しやすいこと

そうした条件を満たすため、多くのサイトは一定の規範に従って作られる。
その結果、個性は抑えられる。
だが、多くの企業が実際に採用するのは後者である。
なぜなら、個性的であることと品質が高いことは必ずしも同じではないからだ。

評価について

ここで評価について考えてみたい。
評価というものは、常に一定の基準によって行われるわけではない。
時代や環境によって、その基準は変化する。
よく知られた例として、画家のゴッホが挙げられる。
現在では高く評価されている作品も、当時はほとんど評価されていなかった。
作品そのものが変化したわけではなく、変化したのは、それを見る側の基準である。
つまり、評価とは作品の中に存在するものではなく、作品と時代との関係によって成立しているのである。
デザインについても同じことが言える。
規範から大きく外れた表現は、時に強い違和感を生む。
その違和感が評価につながることもあれば、受け入れられないこともある。
そして、その判断は時代や環境によって変化する。
だからこそ、規範から逸脱すること自体に価値があるわけではない。
また、規範に従うことだけが正しいわけでもない。
重要なのは、どのような規範が存在し、その規範からどのように距離を取るのかという点である。
私たちが評価と呼んでいるものは、作品そのものではなく、その時代において生じた差異の捉え方なのかもしれない。

おわりに

本記事では、デザインにおける規範や個性、そして評価について簡単に触れた。
私たちは個性的なデザインや企業らしさといった言葉を日常的に用いている。
しかし、それらは単独の要素によって成立しているわけではない。
規範があるから差異が認識される、差異があるから個性が認識される。
そして評価もまた、その時代や環境によって変化していく。
デザインにおいて自由や個性は重要な要素である。
だが、それらは規範とは無関係に存在しているわけではない。
私たちが当たり前のように使う言葉について改めて考えてみると、普段とは少し違った景色が見えてくるかもしれない。