参考サイトから始まるデザインの議論、我々は何を共有しているのか

参考サイトから始まるデザインの議論、我々は何を共有しているのか
まず、デザインとは何かという問題がある。
この言葉は設計を指す場合もあれば、視覚的な表現を指す場合もある。
あるいは単なる印象語として用いられることもある。
したがって、本記事では前提の揺れを避けるため、デザインを「成果物の見た目」として扱う。
また、本記事は制作会社における実務上の議論を対象とする。

参考サイトは完成物である

デザインに関する議論では、参考サイトが持ち出されることが多い。
しかし、この時点で一つの非対称性が存在している。
参考サイトは既に完成した成果物である。
一方で議論の対象となっている成果物は、まだ存在していない。
つまり議論の場では、存在するものを参照しながら、存在しないものについて話していることになる。
参考サイトが有効なのは、この非対称性を一時的に埋めるためである。

配置は再現されない

ここで問題になるのは、参考サイトと制作対象とでは配置が異なることである。
配置とは単なるレイアウトを意味しない。
人員、素材、文章、写真、企業、目的、予算、制作時期などを含めた構成全体を指している。
多くの場合、人は類似した配置から類似した結果が得られると考える。
しかし実際には、完全に同一の配置は成立しない。
仮に同一のデザイナーが制作したとしても、その時点で時間が異なる。
企業が異なれば掲載情報も異なる。
ロゴが変われば余白の扱いも変わる。
したがって、参考サイトを再現することはできない。
成立し得るのは、特定要素の関係性が部分的に類似するという程度である。

評価は対象だけに存在しない

さらに問題を複雑にするのは、参考サイトに対する評価である。
人はしばしば「かっこいい」「高級感がある」「見やすい」といった言葉で評価を行う。
しかし、その評価が対象のみに存在しているとは限らない。
色や配置を見たとき、人は過去の経験や記憶を参照している。
これは意識的な想起とは限らない。
匂いや音によって過去の出来事が立ち上がるように、視覚的な要素によっても特定の観念が呼び起こされる。
そのため、同一の成果物を見ても評価は一致しない。
対象は同じであっても、参照される記憶や経験が異なるからである。
言語化された評価は圧縮される
ここで生じるのが、言語化の問題である。
本来であれば、評価の背後には複数の経験や判断が存在している。
しかし、それらを逐一説明することは難しい。
その結果として、「かっこよく」「もっと高級感を」「少し親しみやすく」といった圧縮された表現が用いられる。
だが、この圧縮によって失われる情報は少なくない。
同じ言葉を用いていても、各々が参照している内容は異なる可能性がある。

議論が噛み合わない理由

デザインの議論が噛み合わない理由は、意見が対立しているからとは限らない。
むしろ、同じ言葉を用いながら異なる対象を指している場合が多い。
参考サイトはその典型である。
ある者は色を見ている。
ある者は余白を見ている。
ある者は情報構造を見ている。

しかし会話の上では、それらすべてが「このデザインが良い」という一文に圧縮される。
したがって、参考サイトは再現のために用いるものではない。
どの要素に価値を見出しているのかを明らかにするための材料として扱う方が実務上は有効である。

発話は責任を伴う

前節で述べたように、参考サイトに対する評価は対象そのものだけで成立しているわけではない。
人は色や配置、余白といった要素を見たとき、過去の経験や記憶を参照しながら評価を行う。
そのため、「かっこいい」「高級感がある」といった言葉の背後には、言語化されていない複数の判断が含まれている。
だが、制作は個人ではなく集団によって行われる。
そのため、本来であれば各々の内部に留まっている観念を、何らかの形で言語へ変換しなければならない。
ここで発話という行為が生じる。

発話とは単なる情報伝達ではない

何を選び、何を捨て、どの言葉によって表現するかという判断そのものである。
例えば、「かっこよくしてほしい」という発言は存在する。
しかし、この発言だけでは何を指しているのか判別できない。

余白を広く取りたいのか。
情報量を減らしたいのか。
高級ブランドのような印象を想定しているのか。
あるいは単に黒を基調とした配色を指しているのか。

これらは発言者の内部では一つの感覚として成立しているかもしれない。
だが、受け手にとっては複数の解釈が成立する。

ここで重要なのは、言葉を具体化するほど発言者の責任範囲もまた明確になるということである。
なぜその判断を行ったのか。
どのような意図を持っているのか。
どの要素を重視しているのか。

これらを明示した瞬間、その発言は議論の対象となる。
反論も可能になる。
修正も可能になる。
一方で、その発言は発言者自身に帰属する。
つまり、発話とは単なる伝達ではなく、判断を引き受ける行為でもある。

曖昧語は責任を分散する

発話に責任が伴うのであれば、人は常に具体的な言葉を用いるのだろうか。
現実にはそうならない。
むしろ、多くの議論では曖昧な表現が用いられる。

「今っぽくしたい」
「ユーザー目線で考えたい」
「一般的なデザインが良い」
「かっこよく見せたい」

こうした言葉は制作現場に限らず頻繁に用いられる。
これらの表現が使われる理由の一つは、責任の帰属先を曖昧にできるからである。
例えば、「一般的に好まれるデザイン」と発言した場合、その判断は発言者個人ではなく、社会的規範へ委ねられる。
「ユーザー目線」という言葉も同様である。

そのユーザーとは誰なのか。
何を根拠としているのか。
どのような行動を想定しているのか。

そうした前提を省略したままでも発話が成立してしまう。
だが、その代償として失われるものがある。
それは議論の対象である。
曖昧語は一見すると合意を形成しやすい。
誰も反対しないからである。
しかし、誰も反対できないということは、何について合意したのかもまた不明瞭であることを意味する。
結果として、議論は進んでいるように見えながら、実際には判断が先送りされる。
そしてその判断は、最終的にデザイナーやディレクターの解釈へ委ねられることになる。
デザインの議論が噛み合わない理由は、意見が対立しているからとは限らない。
むしろ、各々が異なるものを指しながら、同じ言葉を使っている場合の方が多い。
そのため重要なのは、曖昧な言葉を排除することではない。
その言葉が何を指しているのかを掘り下げ、判断の根拠を少しずつ明らかにしていくことである。
デザインの議論とは、成果物を作る前に行われる設計の一部であり、同時に言葉の意味を調整していく過程でもある。

最後に

本記事では、デザインにおける議論がなぜ噛み合わないのかについて整理してきた。
参考サイトは完成物である。
一方で、制作の対象はまだ存在していない。
その時点で、議論は既に非対称な条件の上に成立している。
さらに、人は成果物そのものだけを評価しているわけではない。
過去の経験や記憶を参照しながら、それぞれ異なる価値判断を行っている。
その価値判断は言語によって共有されるが、言葉は常に何らかの圧縮を伴う。
「かっこいい」「高級感がある」といった表現は、その典型と言えるだろう。
デザインの議論が噛み合わないのは、必ずしも誰かが間違っているからではない。
むしろ、同じ言葉を用いながら異なる対象を指していることの方が多い。
だからこそ重要なのは、結論を急ぐことではなく、その言葉が何を指しているのかを少しずつ明らかにしていくことである。
デザインとは成果物を作る作業であると同時に、言葉の意味を調整していく過程でもある。