Web UIは何を失い、何を引き受けてきたのか【Flashから現在までの25年】

Web UIは何を失い、何を引き受けてきたのか【Flashから現在までの25年】
WebサイトのUIは、常に「使いやすさ」の名のもとに進化してきた。
しかし、その進化は本当に人を自由にしてきただろうか。

本記事では、Flashが主役だった2000年代前半から現在に至るまで、Web UIがどのように変化し、何を獲得し、何を失ってきたのかを振り返る。

これは成功事例のまとめでも、技術進化を礼賛する記事でもない。
UIが「表現」から「判断の装置」へと変わっていった過程を、一人の技術者として観測した記録である。

2000年代前半 Flash黄金期

かつて、Web表現の中心にFlashというソフトウェアが存在していた。
制作者はソフトウェア上で制作したものを「swf」という形式で配信し、ActionScriptというスクリプト言語で様々な動作を提供していた。
ここで面白いのは、Flashという存在が現在の文脈から著しく逸脱した存在であるということだ。
つまり、単純なスライドショーやゲーム、シミュレータや動画プレイヤーなど、あらゆる文脈で活用できるものであった。
開発者はWebサイトという媒体における部品を作るのではなく、Flashを掲載するための装置としてWebサイトを活用する場面もあったということである。

やや脱線するが、このFlashという装置は設計思想の面で非常に面白い。
ステージのメインタイムラインは1フレームしかないにもかかわらず、内包されるシンボル(ムービークリップ)は個別のタイムラインを持つことができ、独立した時間軸で動かすこともできる。
また、それらのシンボルは各々がフレームや自他に命令を行うことができる作りとなっている。
それらを分解すると、グラフィックやビットマップといった命令不可のオブジェクトになりうる。
こうした文脈は、現在のオーサリングソフトとは乖離した設計思想でもあるため、時間論や存在論として探索するのも一興だろう。

話は戻るが、こういったFlashで作られたものは、インターネット回線がまだ脆弱だった時代において、動画の代替手段としても成り立っていた。
今でこそYouTubeやTikTokといった動画配信サービスは一般的だが、当時は動画を配信すること自体が極めて稀な時代であり、その中でもFlashは動画の類似体として非常に重要な役割を担っていた。

UIに至っては、そもそも「ユーザーインターフェース」という言葉自体が、まだ社会的に一般化していなかった。
当時のWebサイトは、それぞれが独自の判断で良いと思った仕組みを採用していた。
動くGIFアニメや隠された入り口、閲覧カウンターなど、記憶を辿れば様々な要素が利用されていたのである。
こうした仕組みは、ユーザーとWebサイトの関係性というよりも、制作者がWebサイトに対して感情を投影する行為だったと感じている。
正解と呼ばれるUIも、不便と呼ばれる概念も、今ほど露骨には現れていなかった。
そこには、何かしらの表現を発信したいという制作者の意思が、確かに存在していた。

2000年代後半 Web2.0/標準化

インターネットの黎明期が終わり、Webサイトは資本主義と結びつくことで「正解」を求められる存在になった。
この正解とは何か。それを問えば、社会的な成功へと帰結するだろう。
つまり、金銭的な収益化にどのように結びつくか、といった具合だ。

制作者とWebサイトとの陶酔した関係は薄れ、理性的な正解へと収束していく。
メニューはどの位置にあるべきか、ボタンはどの程度の大きさが良いか――そうした文脈がWebデザインという名目で統合されていくことになる。
従来の自己表現の場は、コンバージョンという結果に収束され、SEO対策によって流入者をどのように扱うかが数値的に計測される中で、Webサイトは商材へと変化していった。
動くGIFアニメは雑音として視認性を下げるため削除され、隠された入り口も意味がないとして削除され、閲覧カウンターも低い数値がユーザーにバイアスを与えるとして排除されていった。
こうしたFlash黄金期の様々な構造は、次第に淘汰されていったのである。
代わりに設置されたのが、より短期的にコンバージョンへ導くための装置、すなわち「お問い合わせはこちら」といったボタンである。
これらのボタンは各ページや各セクションに整備され、収益化に向けた最適化へと注力する方向へ進んでいった。

一方でFlashについては、この時代もなお利用されていたものの、その立ち位置は変わり始めていた。
swfファイルは検索エンジンにおけるSEOの役割を担えなかったため、資本主義的な集客構造と乖離していったのである。
フルスクリーンでリッチコンテンツとされたFlashは、SEO対策をほとんど必要としない大企業に集約され、中小企業では一部分のみで使用される形へと移行していった。
この時代におけるFlashの役割は、SEOから切り離された「リッチであること」そのものへの期待だった。

そしてこの時代になると、CMS(コンテンツマネジメントシステム)が徐々に頭角を現してくる。
なぜCMSが生じたのかを問えば、表層的には「記事の管理ができる」といった理由が挙げられるだろうが、その深層にあるのは「人間が管理できる」という点に尽きる。
黎明期には正解が存在しなかったため、誰もが自分の意思と主体性をもってWebサイトを作ることができた。
HTMLは多少間違っていても動き、CSSを書かなくても成立していたため、どれほど稚拙に見えるサイトであっても許容されていたのである。

しかし、正解が明示されたWebサイトは違う。
正解から逸脱したものを作ることは、そのままビジネス上の機会損失へと置き換えられてしまった。
その結果、技術者にサイト制作を依頼するものの、制作者自身が編集できなければ関係性は薄れてしまう。
その関係性を再接続する装置として登場したのが、CMSである。
CMSは多くの製品が市場に出回ることになるが、その代表例としてWordPressが主要な存在となった。
これについては次で述べることとする。

2010年代前半 UI/UXの分離

ここで、Webサイトにおける決定的な分岐が生じる。スマートフォンの登場である。
スマートフォンの登場によって、Webサイトの形は大きく変化していく。
一つ目はFlashの廃止だ。これまでリッチコンテンツという役割を担ってきたFlashは、スマートフォン環境では未対応となった。
Flashが廃止されたことにより、リッチコンテンツの代替手段はJavaScriptへと置き換えられていく。

二つ目はスマートフォンへの対応である。
Webサイトにおけるスマートフォン対応は、レスポンシブデザインという形で、一つのサイトを複数のデバイスに最適化できる構造を持つことになった。
それに伴い、スマートフォンユーザーの増加によって「モバイルファースト」という概念も生まれる。
これは、母数の多いユーザーデバイスに合わせることで、Webサイトのビジネス上の役割であるコンバージョンが成立しやすくなる、という考え方である。

スマートフォンの登場により、SNSという文脈も立ち上がった。
ユーザーが主体となってコンテンツを投稿し、「いいね」などのリアクションやコメントを付与できるプラットフォームである。
こうしたプラットフォームの普及と同時に、レビュー機能も存在感を増していった。
人間の多くは主体的な選択と責任の引き受けが得意ではないため、こうした機能は人間社会と非常に相性が良い。
「選ぶ」という行為は、「選ばせる」という行為へと暗黙的に、かつ爆発的に社会へ広がっていく。

CMSについてだが、先に述べた通りWordPressが主要な位置付けとなる。
WordPressにはテーマとプラグインが存在する。
テーマは表層の外観を、プラグインは内部機能の補完を担うが、特にプラグインは現代社会と相性が良い。
なぜなら、正解と見なされるプラグインを検索によって探し出せるため、技術を持たない者であっても正解に即座に辿り着けるからだ。
こうした文脈が発展していくと、「WordPress万能説」が社会的認識として立ち上がる。
だが、それは非常に危うい構造である。
万能なものなど存在し得ない以上、目的や状況に応じて選択すべき構造が生じるのは必然である。
思考放棄としてのWordPressという在り方を、私自身は肯定できない。

2010年代後半 プロトタイピング

ここまでの流れの中で、ユーザーが主体としてどう選ぶかではなく、ユーザーにどう選択させるかという構造的UIが立ち上がる。
UIは判断の装置として、陶酔なき理性的な扱いへと変貌を遂げた。

ここで、ユーザーインターフェースについて少々考えてみたい。
ユーザーインターフェースにおける「ユーザー」とは誰のことかを問うと、各UIはインターネットという文明に慣れた人間を前提にしていることが分かる。
例えば、ハンバーガーメニューのような三本線はグローバルナビゲーションとして機能しているが、インターネットに触れたことのない人にとっては、単なる横線の羅列に過ぎない。
つまり、ここで想定されているユーザーは、インターネット経験を前提とした存在であり、すべての人間を対象としているわけではない。
理性的なUIとは、経験を理性として処理した人間にしか使えないものなのである。

ここで重要なのは、UIが往々にして「考えを省略する装置」になっている点だろう。
ユーザーが選ぶ前、考える前に、UIはすでに答えを提示している。
例えば、動画サイトでは「おすすめ」という形で複数の動画が提示され、SNSではスクロールするだけで次の投稿が表示される。
こうした構造によって、人は主体的な判断を暗黙的に手放していく。
人はこれに快楽を感じる。
なぜなら、考えることは苦痛を伴うため、考えなくてよい装置は快楽の照射機のように機能するからだ。
このような構造を利用することは、社会的には都合が良い。
WebサイトにおけるUIの構造は、「いかにしてユーザーを考えさせずに機能させるか」という方向へと至っていく。
しかし、そこには倫理的な判断が不可欠である。
どこまで自由意志を尊重するのか、どこまで自由を広げるのか。
例えば、レビュー機能がなければ人は商品を購入できるのか、といった問いにもつながる。
ただし、ここから先は倫理の領域へと踏み込むため、各々が問いの中で答えを見つけてほしいと考える。

2020年以降 これからのWebサイト

これからのWebサイトの役割は、これまでの流れの中で、より明確になったと言える。
それは、いかにしてユーザーに答えを即時的に提示できるか、という点だ。
生成推論によって質問から答えが要約され提示される時代において、ユーザーは短期的な成果をますます求めるようになるだろう。
その模範解答の中で、Webサイトは理性の檻の中に置かれたまま、淡々と制作され続ける。
黎明期のような陶酔は非生産的だと揶揄され、ビジネスの文脈ではなおさら排除される。
だからこそ、新たな設計思想として何が生まれるのか、それが倫理的であるのか、そうした流れの中で人はどのように歩むのかを、Webサイトという媒体を通して観測することもまた興味深い。
同時に、技術者としての私自身が、この文脈からどのように跳躍するのかも、一つの楽しみである。

この記事のような文章は、ユーザーに即時的な結果を提示するものではない。
問うこと自体が時間の浪費と見なされる時代において、ここまで読み進めてくれた読者諸君に感謝を述べ、本記事を終えたい。